「歯列矯正を始める前に、下に埋まっている親知らずを2本、抜いてきてください」。矯正歯科医から告げられたその言葉は、長年のコンプレックスから解放されることへの期待に満ちていた私の心を、一瞬で恐怖のどん底に突き落としました。私の下の親知らずは、レントゲン写真で見ると、真横を向いて、手前の歯の根にぐいっと食い込むように埋まっていました。これが、いわゆる「水平埋伏智歯」という、抜歯が最も困難とされるタイプのものでした。紹介された大学病院の口腔外科で、抜歯の日程が決まってからは、毎日インターネットで「親知らず 抜歯 痛い」「水平埋伏 腫れ」といったキーワードを検索しては、体験談を読んで震え上がる、という不毛な日々を過ごしました。そして迎えた抜歯当日。麻酔の注射が効いてくると、口の感覚はなくなりましたが、恐怖心だけは鮮明でした。先生が「じゃあ、始めますね」と言って、メスで歯茎を切開していく感覚。そして、骨を削る「ウィーン」という機械音と、骨に伝わる振動。歯を分割するために、ガンガンと叩かれるような衝撃。口の中が戦場のようになっているのが、音と振動でリアルに伝わってきます。痛みはありません。しかし、それ以上に「恐怖」が勝りました。格闘すること約40分。ようやく、分割された歯が全て取り出され、歯茎が縫合されました。本当の戦いは、そこからでした。麻酔が切れると同時に、経験したことのないような激しい痛みが襲ってきました。処方された痛み止めを飲んでも、完全には収まりません。翌日には、顔の形が変わるほど、頬がパンパンに腫れ上がりました。口は指一本分しか開かず、食事はウィダーインゼリーをすするのが精一杯。痛みと腫れがピークを過ぎるまでの一週間は、まさに地獄でした。しかし、その試練を乗り越え、無事に抜糸が終わった時、私は大きな達成感と、不思議なほどの清々しさを感じていました。矯正治療という大きな目標の前に立ちはだかっていた、最大の壁を乗り越えたのだ、と。この経験は、これから始まる長い矯正生活を耐え抜くための、大きな自信と覚悟を私に与えてくれたのです。